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提坂工務店について

始まりのはなし

昭和三十二年四月五日。
木漏れ日が屋根に映って穏やかな春の朝、私は荷物をいっぱいに詰め込んだ竹かごを両手に、とある屋敷の玄関戸をたたきました。

「ごめんください。」

「あらあら、あなたが四郎君ね。遠いところよくいらっしゃいました。」

優しそうな表情で迎えてくれた奥さんの後ろには、仏頂面の大男と、こちらを不思議そうにのぞき込む四人のお兄さん達がいました。どうやら彼らが“親方”と“兄弟子達”のようです。

そう、私が丁稚奉公(でっちぼうこう)として大工の世界に足を踏み込んだのは十五歳の時でした———。

見習いの朝は早く、五時には起床して仕事場の掃除と朝ごはんの支度を手伝います。見習いの朝食は決まってごはん、梅干し、みそ汁。食べ盛りにはきつかった。月に一度出てくる生卵の日が何よりの楽しみでした。

そして、ごはんをかけ込めばすぐに仕事です。
しかし、仕事といっても誰かが教えてくれるわけではありません。親方や兄弟子がやっていることを見よう見まねでやってみるのですが、これが当然ながら難しい。毎日、やってみては怒られ、やってみては怒られての繰り返しです。
どうやら仕事のできる兄弟子たちはたまにお駄賃ももらっていたようではありますが、わたしがもらえたのは毎日のゲンコツだけでした(笑)

そんな毎日の中で少しずつ、できることや任されることが増え、ようやく一人前として腕を認められたのは五年後の二十歳の頃でした。
丁稚奉公を終え、親方の元をでても、まだまだ腕を磨きたいと思った私は、いろいろな人のもとで修業を積むことさらに五年。
計十年の修行を終え、私ははじめて一人親方として独立をさせていただいたのです。

そんな私が家づくりのお手伝いをさせていただく中で、大切にしていることがあります。

それは、お客様と長いお付き合いができる『心のかよう家づくり』をすることです。

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家とは、住まい手と造り手が心を合わせてつくりあげていくもの。どちらかの一方通行だけでは決していい家はできません。
お互いが家づくりと向き合い、山あり谷あり、時には色々あるかもしれません。
しかしながら、共に乗り越え、決して人任せではなく、自分も家づくりの「チームの一員」として楽しみながらつくっていく。

その結果、「やっと自分たちらしい家が出来たね。」「これが私たちにとって、いちばんの家だね。」と、夢だったマイホームが日常となって暮らしていくことが「本当のしあわせ」だと私たちは思っています。

おかげさまで、今では工事をさせていただく八割の方が誰かの紹介です。けっして大きな会社ではない田舎の工務店ですが、ありがたいことに色々なご縁に支えられての今日までがあります。

私が丁稚時代、親方から受けた恩は返しても返しきれるものではありません。しかし、一つずつ、丁寧に丈夫な家をつくらせていただくことが、親方への最大の恩返しと考えます。

そして今、提坂工務店は親から子へ、そして孫の代へ。

私の想いが世代を超えて受け継がれていくように、住まう人達が世代を超えて受け継いでいける価値のある家を一生懸命つくらせていただくこと、これが私たちの使命だと考えます。

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取締役会長
提坂四郎

代表あいさつ

『ウチには家族じゃない人が住んでいる。』
幼少期の頃から家の中には家族ではない“誰か”が共に生活をしていました。
その人たちは日が昇るころから日が暮れるころまで働きます。
そして、その人たちをいつも怒りながら世話をする人物、それが私の父である提坂四郎でした。
そう、共に生活をする誰かとは丁稚奉公(でっちぼうこう)として修行する大工さん達だったのです———。

家には常に4~5人の見習い大工さん達がいました。
母は毎日、彼らのために山盛りの料理を世話し、父は仕事をしているときも、普段の時も常に大工さんたちに厳しいようにみえました。ずっと一緒にいるので当然、家族のようなものなのですが、それにしては厳しすぎるような気がしていました。

少し靴が揃っていないだけ、少し綺麗に掃除がしていなかっただけ、当時の私にとってはたったそれだけの事でも父は激怒して、彼らを叱っていました。息子ながらに、なんでそんなに怒るのだろう…こんなに怒られるなら大工さんにはならないようにしよう、と思いながら過ごす幼少期でした。

社会人になった私は当時の株式会社セイオー(現:ダスキン)に入社しました。
そこでの仕事は楽しく、とてもやりがいもあったのですが、
『これは自分でなくてもできる仕事なのでは?極端な話、明日、自分が会社を辞めても誰も何も困らないのでは?』と考えるようになりました。

とても大きな会社ですから、今考えれば当然のことなのですが、当時の私の中には(自分がいないと会社が回らない、そんな仕事がしたい。)という気持ちが日に日に強くなっていきました。

そんな中、幼い時に言われた父の言葉が脳裏に甦ります。

「大介はおれと一緒に仕事するだいな~(静岡弁)」

自分の力を試すためにも、また自分にしかできない仕事を見つけるためにも、家業である提坂工務店に入ることを決意しました。それからダスキンを退社するまでの2年間は、お世話になった会社への恩返しのため、今まで以上に全力で営業に取り組んだことを今でも覚えています。

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その後、提坂工務店へ営業として入社した私でしたが、当然、以前の仕事内容と建築業では畑が全く異なります。「仕事は見て、盗んで、覚えろ」の昔ながらの職人気質の父から教えてもらえることは一切なく、また、当時はバブルが弾けた直後で会社自体にも仕事が薄い状態でした。
現場もなければ、営業先もない。しかしながら大工さん達は休ませるわけにはいきませんので、毎日毎日、工場の掃除をしてもらっていました。
当然、そんな状態ですから銀行さんも取引停止の直前まできていました。

確かに私が入社した当時、色々な変革期に入っていたと思います。入社したての私から見ても、この会社は現会長(提坂四郎)一人でもっている会社に見えました。
そのせいか、会長の言う事は誰も止めることができず、意見も注意もできなくなっていました。

一社員ではありますが、父親と子供という間柄、会長に対して発言をすることはできます。当然ながら対立もしました。しかしながら、何かアイデアがあるわけでもなく、どうしようか悩んでいた所、セイオーで学んだ営業方法を活かす方法を思いつきました。

それは過去にお世話になったお客様にお伺いすることです。
OB様のリストアップから始め、ルートを決め、そしてお伺いをする、これを毎月続けました。すると、段々と顔を覚えられ声をかけてもらえるようになり、少しずつですが、工事のお話をいただくようになりました。

また、お世話になったお宅へ訪問するたび、驚くことがありました。それはどこへいっても「四郎さん(現会長)元気?四郎さんがこんな感じにしてくれたんだよ~。お茶でも飲んでいかない?」と、とても評判が良いのです。

あの時、すごい丁寧にお家をつくってくれたんだよ。とか、おかげさまでいつまで経っても直すところがでないよ。とか、本当にあの時はお世話になって…、またよろしく伝えておいてね。等、なんだか聞いているだけで自分も嬉しく誇らしい気持ちになるのを実感しました。

そして同時に、昔からの疑問である『なぜ父は必要以上に弟子の大工さん達や協力業者さんに厳しかったのか』に気づかされました。それは建築しているお客様の家を丁寧に、確実に、また常に手を抜かず全力で仕事をするという情熱の裏返しだったのです。

少なからず、先代を否定していた自分が恥ずかしくなりました。
それからは、より一層と気を引き締め、打合せ中のお客様、OBのお客様を大切に仕事をしていきました。
すると、何十年も前にお世話になったお客様の息子さんが家を建てくれたり、リフォームの仕事をいただいたり、はたまたご紹介をいただいたり。本当にありがたいです。

これからも、私が先代より受け継いだ
【人とのご縁・仕事への情熱・家づくりの想い・全てへの感謝】
を大切に、全力で仕事をさせていただきます。

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代表取締役
提坂大介

 
 

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